五感を刺激するミュージアムへ:低コストで実現する触れる展示のアイデア
触れる展示がミュージアムにもたらすもの
ミュージアムにおける展示は、主に視覚に訴えかけるものが中心となりがちです。しかし、「触れる展示」は、視覚だけでなく、触覚を通して資料や展示物の質感、形、構造などをより深く理解する機会を提供します。これは、視覚に障がいのある方はもちろんのこと、小さなお子様から大人まで、すべての来館者にとって新しい発見や学びにつながる可能性を秘めています。五感を刺激する体験は、展示内容への関心を高め、記憶に残りやすい豊かな学習機会を創出します。
インクルーシブなミュージアムづくりを目指す上で、触れることができる展示物の導入は重要な要素の一つです。しかし、特に地方の小規模ミュージアムでは、予算や人員の制約、資料の保全といった課題から、導入を躊躇されるケースも少なくないでしょう。本稿では、そのような制約がある中でも実現可能な、触れる展示のアイデアと実践に向けた考え方をご紹介します。
触れる展示導入における一般的な課題
触れる展示の導入には、いくつかの課題が考えられます。
- 予算の制約: 新たな展示物の制作、レプリカ作成、特殊なケースや設備の導入にはコストがかかります。
- 人員不足: 触れる展示物の管理、清掃、メンテナンスには人員と手間が必要です。
- 資料の保全: 貴重な実物資料を直接触れる形にするのは難しく、劣化や破損のリスクが伴います。
- 専門知識の不足: どのようなものを触れる展示にするか、どのように安全に展示するかといった専門的な知識が必要になる場合があります。
これらの課題を乗り越え、持続可能な形で触れる展示を実現するための具体的な方法を次に探ります。
低コストで実現する触れる展示のアイデア
限られた予算や人員でも可能な触れる展示のアイデアは複数存在します。
1. 既存資料の活用と工夫
高価なレプリカを制作せずとも、既存の資料の中から「触れる」ことのできるものを選定し、展示に加える方法です。
- 素材サンプルの提示: 展示品に使われている素材(例:陶器の破片、繊維、木材のサンプル)そのものを、安全な形で触れることができるようにします。異なる素材の質感や重さを比較する体験を提供できます。
- 劣化しにくい実物資料: 石や鉱物、特定の種類の骨格標本など、比較的劣化しにくく、触れることによる影響が少ない実物資料を選定し、注意書きと合わせて提示します。ただし、保全上のリスクを十分に評価し、専門家と相談の上で判断することが不可欠です。
- 展示ケースの工夫: 通常はケース越しに見るだけの展示品について、展示ケースの一部に開口部を設け、特定の角度から限定的に触れることができるようにする(例:彫刻の一部など)。これも資料の保全リスクを最小限に抑えつつ、触覚体験を提供する方法です。
2. 低コストでの制作・手配
予算を抑えながら、触れる展示用のアイテムを制作または手配するアイデアです。
- シンプルなレプリカ制作: 複雑な形状のものではなく、展示品の主要な特徴を示すシンプルなレプリカや模型を制作します。3Dプリンターがあれば活用できますが、粘土、石膏、発泡スチロールなどの身近な素材や、地域の工芸家、学校の美術部などと連携して制作することも検討できます。
- 素材セットや体験キット: 特定のテーマに合わせて、様々な質感の素材(布、石、木、金属片など)を集めたセットや、組み立てて形を確かめることができる簡単な体験キットを用意します。これらは既製品の活用や、比較的容易な手作業で準備可能です。
- 図形や模様の触覚表示: 展示品の図解や模様を、盛り上げ印刷や点字、触図として表現します。専門業者への依頼も可能ですが、特殊なインクやシートを使って内製化したり、点字プリンターを活用したりする方法もあります。
3. デジタル技術との組み合わせ
スマートフォンやタブレットを活用し、触覚以外の感覚情報と組み合わせることで、触れる体験をより豊かなものにできます。
- QRコードによる音声解説: 触れることができる展示物の近くにQRコードを設置し、スマートフォンの読み取りで音声解説や関連情報にアクセスできるようにします。これは視覚情報が得にくい方への情報提供としても有効です。
- AR(拡張現実)の活用: 触れる模型にスマートフォンをかざすと、関連情報が表示されたり、動きが再現されたりするような展示も、比較的低コストで実現可能なARアプリの活用により検討できます。
実施上の考慮点と成功へのステップ
触れる展示を導入・運用する上で、いくつか重要な考慮点があります。
安全性と衛生管理
触れる展示物は多くの人が触れるため、安全性の確保と衛生管理は不可欠です。
- 素材の選定: アレルギーを引き起こす可能性のある素材は避けるか、十分に情報を明示します。尖った部分や割れやすい部分は避けて制作します。
- 定期的な清掃: 展示物を定期的に清掃・消毒する体制を整えます。来館者向けに手指消毒液を設置することも効果的です。
- 劣化・破損への対策: 触れることによる劣化や破損を想定し、頑丈な素材を選んだり、予備を用意したり、定期的な点検とメンテナンス計画を立てたりします。
解説情報のアクセシビリティ
触れる展示の意図や内容を伝える解説情報も、すべての人がアクセスできる形式で提供します。
- 点字や大活字: 展示物の名称や簡単な説明を点字や大活字で併記します。
- 音声解説: QRコードや専用機器を利用して、音声による解説を提供します。
- 平易な言葉: 専門用語を避け、分かりやすい言葉で解説を記述します。
スタッフ研修と来館者への案内
触れる展示の意図や利用方法について、スタッフが理解し、来館者に適切に案内できるよう研修を行います。また、来館者に対して、触れることができる範囲や、優しく触れるといった利用上の注意点を分かりやすく提示します。
設置場所の配慮
触れる展示物は、車椅子利用者や小さなお子様など、様々な方がアクセスしやすい高さや場所に設置します。周囲に十分なスペースを確保することも重要です。
予算規模別の実現イメージ
- 低予算(〜数十万円): 既存資料の素材サンプル展示、比較的容易に手に入る素材を用いたシンプルな模型、QRコードによる音声解説導入、既存展示の一部を触れる形式にするためのケース改修。
- 中予算(数十万円〜数百万円): 専門業者によるレプリカ制作の一部依頼、オリジナルの体験キット開発、触覚図の制作依頼、デジタル技術(ARなど)を活用した展示。
- 高予算(数百万円〜): 大規模なレプリカ群の制作、常設の体験型展示ゾーンの設置、高機能なデジタルサイネージやインタラクティブ展示との連動。
まずは低予算で可能な範囲から取り組みを始め、来館者の反応や運営上の課題を把握しながら、段階的に拡充していくアプローチが現実的です。
情報源と相談先
触れる展示に関する情報は、以下の情報源や専門家から得ることができます。
- ユニバーサルデザイン、アクセシビリティに関する書籍やウェブサイト: 基本的な考え方や事例を学ぶことができます。
- 視覚障がい者団体、聴覚障がい者団体: 当事者の視点からの貴重な意見やアドバイスを得られます。展示のモニターツアーなどを依頼することも検討できます。
- 博物館学、教育学、福祉学の専門家: 研究者やコンサルタントから、理論的・実践的な助言を得られる可能性があります。
- UD(ユニバーサルデザイン)やアクセシビリティのコンサルタント: 展示全体の企画や具体的な設計について専門的なサポートを受けられます。
- 他のミュージアム: 既に触れる展示を導入しているミュージアムに問い合わせて、経験談やノウハウを共有してもらうことも非常に参考になります。特に規模や展示内容が似ている館の事例は役立つでしょう。
- 地域の工房や大学: レプリカ制作や技術的な協力について相談できる場合があります。
予算が限られている場合でも、まずは相談してみることが重要です。無償または低コストで協力してくれる専門家や団体が見つかる可能性もあります。
まとめ:第一歩を踏み出すために
すべての人が楽しめるミュージアムづくりにおいて、触れる展示は非常に有効な手段の一つです。予算や人員の制約は確かに存在しますが、アイデア次第で低コストでも実現可能なアプローチはたくさんあります。
大切なのは、完璧を目指すのではなく、まずは小さくても良いので第一歩を踏み出すことです。既存資料の工夫から始めたり、シンプルな素材サンプルを用意したりするなど、無理のない範囲から導入を進めてみてはいかがでしょうか。
来館者の反応を見ながら改善を重ね、展示内容に合わせて触れる体験の幅を広げていくことができます。触れる展示が、あなたのミュージアムを訪れるすべての人々にとって、より豊かで記憶に残る体験となることを願っています。