学芸員ができる:資料を通じたインクルーシブ体験のデザイン:レプリカ・触察・多感覚展示の低予算アイデア
はじめに:資料を通じたインクルーシブな体験の重要性
ミュージアムの最も重要な要素の一つは、収集・保管されている「資料」そのものです。多くの来館者は、これらの資料との出会いを通じて学びや感動を得ています。しかし、資料の多くは保存上の理由などからガラスケース越しに見るだけであったり、特定の視覚に依存した展示方法であったりと、すべての人が等しくその存在や情報を理解し、体験できるわけではありません。
すべての人が楽しめるミュージアムを目指す上で、資料そのものへのアクセス方法を多様化し、より多くの人が資料との豊かな出会いを体験できるようにすることは、非常に重要な課題です。特に、視覚以外の感覚を活用した体験は、障害のある方だけでなく、小さなお子様から高齢者まで、あるいは文化や言語の異なる人々にとっても、資料への理解を深める有効な手段となり得ます。
本記事では、地方の小規模ミュージアムで働く学芸員の皆様が、限られた予算や人員の中でも実践できる、資料を通じたインクルーシブ体験のデザインについて、レプリカや触察、多感覚的なアプローチを中心に具体的なアイデアとヒントをご紹介します。
なぜ資料への「触れる」「感じる」体験が重要なのか
資料へのアクセスは、視覚に大きく依存しているのが一般的です。しかし、資料の形、質感、重さ、場合によっては香りや音といった要素は、その資料が持つ歴史や背景、用途などをより深く理解するための重要な情報を含んでいます。
例えば、石器の鋭さ、土器の表面の模様、古い衣服の生地の感触、楽器の形状や音色などを直接体験することは、資料に関する文字情報や画像情報だけでは得られない深い気づきをもたらします。視覚に障害のある方にとっては、触覚や聴覚が資料理解の主要な手段となります。また、視覚的な情報処理が苦手な方や小さなお子様にとっては、五感を使った体験が資料への興味を引き出し、学びを定着させる助けとなります。
資料に直接触れることのできない場合でも、レプリカや模型、あるいは他の感覚を刺激する情報(音声、香り、振動など)を用いることで、資料が持つ多角的な情報を伝達し、多様な人が資料世界に入り込むための入口を増やすことが可能になります。
限られた予算で実現する具体的なアイデア
1. レプリカ・模型の活用
保存上の理由から実物資料に触れることが難しい場合に有効なのがレプリカや模型です。
- 低コストなレプリカ製作:
- 簡易な型取りと複製: 石器や小型の土器片、装飾品など、比較的形状が単純なものや大きさが小さいものは、シリコンや石膏を使った簡易な型取りでレプリカを製作することができます。ホームセンターなどで手に入る材料でも試せるものがあります。ただし、資料にダメージを与えないよう、専門家や経験者のアドバイスを必ず仰いでください。
- 3Dプリンターの活用: 近年、低価格の3Dプリンターが登場しています。資料を3Dスキャンまたは3Dモデリングすることで、手軽にレプリカを製作できます。小型で複雑な形状の資料や、内部構造を見せるためのカットモデルなども作製可能です。地域の図書館や大学などが3Dプリンターを設置している場合もありますので、連携を検討するのも良いでしょう。
- 身近な素材で再現: 資料の特徴的な質感や形状を、紙粘土、布、木材などの身近な素材で模倣した簡易模型を作ることも有効です。精巧さよりも、「ざらざら」「つるつる」「でこぼこ」といった質感や、資料の基本的な形を伝えることに重点を置きます。
- 展示・活用方法:
- キャプションと共に「触れることができます」と明示し、安全に触れるための注意書きを添えます。
- ワークショップで参加者がレプリカを手に取り、観察したり操作したりする機会を設けます。
- 視覚障害者向けの解説で、触察用資料として活用します。
2. 触察展示の工夫
資料そのもの、またはレプリカを用いて、触覚に訴えかける展示を取り入れます。
- 触察パネル: 資料(あるいはレプリカ)の表面の質感や模様を再現したパネルを製作します。例えば、古墳の石材の肌合い、織物の模様、彫刻の細部などを立体的に再現します。視覚情報と組み合わせることで、より深い理解を促します。
- 実物資料(触察可能なもの)の選定: 中には、劣化しにくく、ある程度の接触に耐えうる資料も存在します。例えば、大きな岩石、鉄製品の一部(錆びた表面など)、特定の素材で作られた工芸品などです。ただし、資料保存との兼ね合いは非常に重要ですので、資料管理の専門家と十分に検討し、触察可能なエリアや方法を厳密に定めます。
- 触察時の注意点:
- 手を清潔にするためのウェットティッシュやアルコール消毒液を設置します。
- 触察できる範囲を明確に示します。
- 資料(レプリカ含む)が動かないようにしっかりと固定します。
- 定期的な清掃やメンテナンスを行います。
3. 多感覚展示のアイデア
触覚以外の感覚も活用し、資料体験を豊かにします。
- 音声解説: 資料に関する情報を音声で提供します。
- QRコードとスマートフォン: 資料やキャプションの近くにQRコードを設置し、スマートフォンで読み取ると解説音声が再生されるようにします。録音は学芸員自身が行うなど、低コストで実現できます。
- 簡単な再生機器: 特定の資料の前でボタンを押すと音声が流れるような、簡易な音声再生機器を設置します。
- 内容は、視覚情報に依存しない具体的な描写や、資料の背景にある物語などを盛り込むと効果的です。
- 香り: 資料に関連する香りを導入します。例えば、古い書籍の匂いを再現したアロマを置く、薬草に関する資料の近くにその香りを漂わせるなどです。香りは人の記憶や感情に強く訴えかけます。
- 音: 資料に関連する音を流します。例えば、古い道具の使用音、特定の場所の環境音、当時の音楽などです。
- 振動: 資料の特性(例:地震計、工業製品など)に関連した振動を再現する展示を検討します。
これらの多感覚的な要素は、資料そのものだけでなく、資料が使われていた時代や場所の雰囲気を感じる手助けにもなります。
実施上の考慮点と連携
- 予算規模に合わせた段階的導入: 最初から大規模な改修を目指すのではなく、一つのレプリカ製作や、特定の資料に関する音声解説の追加など、実現可能な小さなステップから始めることを推奨します。効果を見ながら、徐々に広げていくのが現実的です。
- 資料保存との両立: インクルーシブ化は重要ですが、ミュージアムの使命である資料保存を最優先することは言うまでもありません。触察可能な資料の選定やレプリカ製作においては、必ず資料管理や保存修復の専門家と密に連携し、資料へのリスクをゼロにするための検討が必要です。
- 来館者からのフィードバック: 実際にこれらの展示や体験を導入したら、来館者からのフィードバックを積極的に収集しましょう。「触ってみてどうだったか」「音声解説は分かりやすかったか」など、アンケートや直接の聞き取りを通じて改善点を見つけ出します。
- 外部との連携:
- 障害当事者団体: 視覚障害者や発達障害者など、多様な背景を持つ方々からの意見は、展示や体験の設計において非常に参考になります。企画段階から相談に乗ってもらうことを検討しましょう。
- 大学・研究機関: レプリカ製作技術や、ユニバーサルデザイン、アクセシビリティに関する専門的なアドバイスを得られる可能性があります。学生のプロジェクトとして協力してもらうことも考えられます。
- 地域のNPO/企業: レプリカ製作や展示ツールの開発などで協力してくれる団体や企業があるかもしれません。地域資源の活用という視点でも有益です。
- 他のミュージアム: 他のミュージアムが実施しているインクルーシブな資料活用事例を調査し、担当者に話を聞いてみることも有効です。
まとめ:小さな一歩から始めるインクルーシブな資料体験
資料を通じたインクルーシブな体験デザインは、多様な人々がミュージアムの核に触れ、深い学びや感動を得るための扉を開きます。レプリカの製作、触察展示の工夫、音声や香りなどの多感覚的な要素の導入は、限られた予算と人員の小規模ミュージアムでも、アイデアと工夫次第で実現可能です。
すぐに大規模な取り組みを行うことが難しくても、一つの資料に焦点を当て、レプリカを一つ作る、音声解説を一つ追加するなど、小さな一歩から始めてみてください。資料保存の専門家や多様な背景を持つ人々との連携を通じて、より豊かなインクルーシブ体験のデザインは必ず実現できます。
すべての人が資料との出会いを楽しみ、ミュージアムでの時間がより豊かなものとなるよう、共に歩みを進めていきましょう。