ミュージアムへの「安心な一歩」を支援する:来館前の準備を助ける情報提供とツールの低予算アイデア
はじめに
ミュージアムへの来館は、多くの人にとって心躍る体験ですが、中には事前の情報不足や慣れない場所への不安から、一歩を踏み出しにくいと感じる方もいらっしゃいます。特に、感覚過敏のある方、発達障害や知的障害のある方、認知症の方、初めての場所が苦手な方などにとって、来館前の「見通し」が立つことは、安心して訪れるために非常に重要です。
インクルーシブなミュージアムづくりは、物理的な改修や展示の工夫だけでなく、来館に至るまでのプロセス全体を考慮することから始まります。本稿では、限られた予算や人員の小規模ミュージアムでも実践可能な、来館前の不安を和らげ、「安心な一歩」を支援するための情報提供とツールの具体的なアイデアをご紹介します。
来館前の不安とその背景
ミュージアムへの来館にあたり、どのような点に不安を感じる方がいらっしゃるのでしょうか。代表的な例として以下が挙げられます。
- 場所の見通しが立たない: 入口はどこか、受付はどこか、展示室の順路は、トイレの場所は、休憩できる場所はあるかなど、館内の構造や移動に関する情報がないことへの不安。
- 感覚的な刺激への懸念: 展示室の音の大きさ、照明の明るさ、混雑具合、特有の匂いなどが、自身にとって耐え難い刺激とならないかという不安(感覚過敏など)。
- 予期せぬ出来事への対応: 急な体調不良や困りごとが起きたときに、どうすれば良いか分からないという不安。
- コミュニケーションへの懸念: スタッフとのやり取りや、周りの利用者との関わりについて不安を感じる場合。
- ルールやマナーへの不安: 館内でどのような行動が許容されるのかが分かりにくいことへの不安。
これらの不安を軽減するためには、来館前に、具体的にどのような場所で、どのような体験が待っているのか、そして困ったときにはどうすれば良いのかといった情報を、分かりやすく、必要な人に届ける工夫が必要です。
低予算で始める事前情報提供の改善
既存のウェブサイトや印刷物を活用し、少しの工夫で来館前の情報提供を改善できます。
1. ウェブサイトでの詳細な情報提供
ウェブサイトは、最も多くの人が参照する事前情報源です。以下の情報を具体的かつ分かりやすく掲載することで、来館へのハードルを下げることができます。
- 写真付きルート案内: 最寄りの公共交通機関からのアクセス方法、建物の外観、入口、受付、展示室への入り口、主要な展示エリア、休憩スペース、トイレ(多目的トイレ含む)、出口などを、写真と簡単な説明を添えて掲載します。これにより、初めて訪れる場所でも視覚的に経路を把握しやすくなります。
- 館内の感覚情報: 展示室ごとの一般的な音量レベル(静か、やや騒がしいなど)、照明の雰囲気(明るい、暗めなど)、匂い(無臭、特定の香りなど)といった感覚的な情報を可能な範囲で伝えます。これにより、特定の感覚刺激が苦手な方が、自身の状態に合わせて準備したり、回避ルートを検討したりできます。
- 混雑予想カレンダー/情報: 日時による混雑の傾向や、現在の混雑状況を確認できる情報を提供します。混雑が苦手な方が、比較的空いている時間帯を選んで来館するのに役立ちます。
- 設備・サービスの詳細: ベビーカーや車椅子の貸し出し、AEDの設置場所、救護室の有無、無料Wi-Fi、ロッカー、休憩スペースの詳細(座席数、飲食の可否など)、飲食施設(ある場合)の情報などを具体的に記載します。
- 「来館前に知っておくと良いこと」チェックリスト: 持ち物(必要な薬、筆談具など)、館内での基本的なルール(飲食、写真撮影など)、困ったときの声かけ先などを簡潔なリスト形式で提示します。
2. 印刷物の活用
ウェブサイトの情報全てを盛り込むのは難しい場合でも、特に重要な情報(アクセス、入口、トイレ、休憩スペースなど)を抜粋し、写真やイラストを多く使った簡易的なパンフレットやチラシを作成できます。地域の公共施設や図書館、福祉施設などに設置してもらうことも検討します。
3. 電話・メール問い合わせ対応の強化
ウェブサイトの情報だけでは分からない個別の質問に対応するため、問い合わせ窓口を明確にします。よくある質問とその回答例をまとめたスタッフ向けマニュアルを作成し、誰が対応しても一定の情報提供ができるように準備します。特に、障害の種類や程度、具体的なニーズは多様であるため、一方的な情報提供だけでなく、相手の話を丁寧に聞き取り、必要な情報を的確に伝える姿勢が重要です。
「見通し支援ツール」の導入アイデア
特定の困難さを持つ方が来館前に「見通し」を立てるのを助けるためのツールを、低予算で作成・提供できます。
1. ソーシャルストーリーの作成
ソーシャルストーリーとは、特定の状況や活動について、簡単な言葉と写真やイラストを使って説明する短い物語形式の文章です。ミュージアム来館のためのソーシャルストーリーを作成し、ウェブサイトでPDFファイルとして公開したり、希望者に印刷して配布したりします。
- 内容の例: 「これから〇〇ミュージアムに行きます」「入口に着きました。ここでチケットを見せます(買います)」「展示室に入ります。静かに見て回ります」「疲れたら休憩スペースで休みます」「トイレに行きたくなったら、このマークの場所に行きます」「見終わったら、入口の場所から外に出ます」など。
- 作成のポイント:
- 一人称または三人称で記述します。
- 肯定的な言葉遣いを心がけます。
- 具体的な場所や行動を写真やイラストで示します。
- 無料のデザインツールやテンプレートを活用し、手軽に作成できます。
2. 視覚支援ツールの作成
来館中の見通しを立てたり、行動を促したりするための視覚支援ツールを作成します。
- 「やることリスト」カード: 「チケットを渡す」「展示を見る」「休憩する」「トイレに行く」「おしまい」など、来館中の主な流れをピクトグラムや写真で示したカード。終わった項目を裏返せるようにするなど、達成感を感じられる工夫も可能です。
- 「休憩場所カード」「静かな場所カード」: 館内の休憩スペースや比較的静かで落ち着ける場所をピクトグラムと簡単な地図で示したカード。
- 「助けてほしいときカード」: 困ったときにスタッフに見せることで、助けを求められるカード。「トイレに行きたい」「休みたい」「気分が悪い」といったピクトグラムなど。
これらのツールも、インターネットで無料のピクトグラム素材を探したり、スタッフが館内を撮影した写真を使ったりすることで、低予算で作成できます。ラミネート加工をすれば繰り返し使えます。
3. 事前見学(下見)の受け入れ
希望者に対して、開館時間外や比較的空いている時間帯に、事前に館内を下見できる機会を設けることも有効です。実際に場所を見て、スタッフと簡単なやり取りをすることで、来館への不安を大きく軽減できます。予約制にする、特定の曜日・時間帯に限定するなど、ミュージアム側の負担が大きくなりすぎないよう運用方法を検討します。対応するスタッフ向けに、対応時の注意点や説明すべきポイントをまとめた簡易マニュアルを作成します。
実施上の考慮点と次のステップ
これらのアイデアを実践するにあたり、いくつか考慮しておきたい点があります。
- 誰のために、どのような情報が必要か? 特定の困難さを持つ方だけでなく、小さなお子さん連れの方、高齢の方、初めてミュージアムを訪れる方など、多様な来館者のニーズを想定します。可能であれば、地域の支援団体や当事者の方々から、どのような情報があると助かるか意見を聞く機会を持つことが望ましいです。
- 既存のリソースを最大限に活用: 新しいものを作成するだけでなく、既に持っているウェブサイトやパンフレット、館内の写真などをどのように活用できるか検討します。
- 完璧を目指さない: 一度に全てを実施しようとせず、まずは一つか二つの取り組みから始めてみます。例えば、ウェブサイトに写真付きのルート案内を追加することから始めるなど、優先順位をつけて段階的に進めることが現実的です。
- スタッフ間の共有: 事前情報提供の内容や、見通し支援ツールの存在、事前見学の受け入れ体制などについて、全てのスタッフが共通理解を持つことが重要です。来館者からの問い合わせに対応したり、来館中に困っている方に適切な情報を提供したりするために、スタッフ間の情報共有や簡単な研修を実施します。
関連情報・相談先
来館前の準備支援やツールの活用について、さらに深く知りたい場合や、個別の状況について相談したい場合は、以下のような情報源や専門家が参考になります。
- 発達障害者支援センターや精神保健福祉センターなど、地域の福祉・医療機関。
- 各障害に関する当事者団体や支援団体。
- アクセシビリティやユニバーサルデザインに関するコンサルタントや専門家。これらの専門家が提供する研修やセミナーに参加することも有効です。
- 他のミュージアムや文化施設での取り組み事例を調べることも、新たなアイデアを得るヒントになります。
まとめ
ミュージアムへの「安心な一歩」を支援するための事前情報提供とツールの活用は、決して特別なことではなく、既存のリソースや低予算のアイデアでも十分に実現可能です。来館前の不安を和らげ、誰もが安心してミュージアムを訪れることができる環境を整えることは、インクルーシブなミュージアムづくりの重要な一歩となります。本稿で紹介したアイデアが、皆様のミュージアムでの実践の参考となれば幸いです。小さな一歩から、すべての人にとって心地よいミュージアム空間を共に目指していきましょう。