学芸員が実践できる:ミュージアムスタッフのインクルーシブ接遇マニュアル作成ガイド
すべての来館者が安心して過ごせるミュージアムのために:スタッフの役割の重要性
ミュージアムのインクルーシブ化と聞くと、多くの場合、展示空間の物理的なアクセシビリティ改修や、多言語対応、触れる展示の導入といったハード面や展示手法の工夫を思い浮かべるかもしれません。もちろんこれらは非常に重要ですが、来館者がミュージアムで体験するすべては、そこで働くスタッフとの関わり抜きには語れません。受付での最初の挨拶から、展示室での声かけ、質問への対応、休憩スペースでの配慮など、スタッフ一人ひとりの言動が、来館者の安心感や満足度を大きく左右します。
特に地方の小規模ミュージアムでは、専門の対応スタッフを配置する十分な予算や人員がない場合も少なくありません。このような状況において、既存のスタッフ全員が、多様なニーズを持つ来館者に対して適切かつ自然な対応ができるようになることは、インクルーシブなミュージアムを実現する上で不可欠な要素となります。
しかし、「どのようにスタッフを教育すれば良いのか」「専門知識がない学芸員にできるのか」「コストをかけずに実施するには」といった疑問や課題を感じている学芸員の方々もいらっしゃるのではないでしょうか。
この記事では、限られたリソースの中でも学芸員が主体となって進められる、ミュージアムスタッフのインクルーシブな接遇スキル向上のための方法として、「マニュアル作成と活用」に焦点を当て、その具体的な進め方やポイントをご紹介します。
インクルーシブな接遇とは
インクルーシブな接遇とは、単に親切に対応することではありません。来館者の多様な背景、特性、状態(障害の有無、年齢、言語、文化、体調など)を理解し、それぞれの方が快適に、そして尊厳を持ってミュージアムを楽しめるように、柔軟かつ適切なコミュニケーションとサポートを行うことです。
具体的には、以下のような視点が求められます。
- 多様性の理解: 来館者には様々な人がいることを前提とし、特定の「普通の来館者」を想定しない。
- エンパシー(共感): 来館者の状況や感情を想像し、寄り添う姿勢を持つ。
- 適切なコミュニケーション: 分かりやすい言葉遣い、必要に応じた筆談やジェスチャー、声のトーンや表情への配慮。急かさず、相手のペースに合わせることも重要です。
- 柔軟な対応: マニュアル通りの一律な対応ではなく、一人ひとりの状況に合わせて対応を調整する。
- プライバシーへの配慮: 支援が必要な場合でも、本人の意思やプライバシーを尊重する。
- ポジティブな姿勢: 来館者の「できないこと」に注目するのではなく、「できること」や「楽しみたいこと」をサポートする視点を持つ。
マニュアル作成の第一歩:目的とスコープの設定
実践的なマニュアルを作成するためには、まずその目的とスコープを明確にする必要があります。「すべてのスタッフが、多様な来館者に対して安心して対応できるようになること」といった大きな目的を掲げつつ、初期段階では「受付での基本的な声かけ」や「展示室での困りごとへの対応」など、具体的な場面に絞るのも良いでしょう。
誰を対象としたマニュアルにするかも重要です。常勤スタッフ、パート・アルバイト、ボランティアなど、それぞれの役割や経験レベルに応じた内容を検討します。最初は共通の基本編から始め、必要に応じて応用編を追加していくのが現実的です。
盛り込むべき基本的な内容としては、以下のような項目が考えられます。
- ミュージアムのユニバーサルデザイン・アクセシビリティに関する基本的な考え方
- 出会う可能性のある多様な来館者の例(高齢者、肢体不自由者、視覚・聴覚障害者、発達障害者、外国人など)とその特性の一部
- それぞれの来館者に対する具体的なコミュニケーションやサポートの例(例: 筆談の活用、手荷物サポート、休憩スペースの案内など)
- 緊急時(体調不良、迷子など)の対応フロー
- 困ったときの相談先(責任者、連携する外部機関など)
低コストで実現するマニュアル作成の具体的な手順
専門家へ依頼することなく、学芸員自身が中心となってマニュアルを作成・更新していくことは十分に可能です。予算や人員が限られている状況でも取り組める、具体的な手順を以下に示します。
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既存の情報収集と活用:
- 所属する自治体や関連団体の作成したユニバーサルデザインや接遇に関するガイドライン、研修資料がないか確認します。これらは多くの場合、無料で入手可能です。
- 他のミュージアムのウェブサイトや報告書で、スタッフ研修や対応に関する情報が公開されていないか調べてみます。
- 関連分野の書籍やウェブサイト記事(当サイトの記事なども含みます)を参照し、基礎知識を収集します。
- 専門家による無料または安価なオンラインセミナーなどを活用することも有効です。
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現場スタッフからのヒアリング:
- 日々の業務でスタッフが実際に経験した事例(成功談、困ったこと、疑問など)を収集します。簡単なアンケートやミーティングでの話し合いが有効です。これが最も実践的な内容を盛り込むための重要なステップです。
- 「こんな時、どうすれば良いですか?」といった具体的な質問を募り、それをマニュアルのQ&A形式の項目にするのも良いでしょう。
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構成案の作成:
- 収集した情報とヒアリング内容をもとに、マニュアルの構成案を作成します。「はじめに」「基本の考え方」「来館者の多様性と対応例」「よくある質問」「困ったときは」「緊急時の対応」といったシンプルな章立てがおすすめです。
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執筆:
- 専門用語は避け、誰にでも理解できる平易な言葉で記述します。具体的な行動(「〇〇と声かけをする」「〇〇に案内する」など)を明確に示します。
- 箇条書きや表、図などを活用し、視覚的に分かりやすく工夫します。
- 可能であれば、館内の写真(休憩スペース、トイレ、エレベーターなどの場所や、案内表示の例など)を掲載すると、より実践的になります。ただし、著作権やプライバシーに十分配慮してください。
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レビューと試用:
- 作成したマニュアルを、一部のスタッフに読んでもらい、分かりにくい点や追加してほしい点がないかフィードバックをもらいます。
- 可能であれば、フィードバックをもとに修正したマニュアルを実際に数日間運用してみて、効果や課題を確認します。
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製本・配布形式の検討:
- 紙媒体で配布する場合は、シンプルに印刷してファイリングするだけでも十分です。全員が常に携帯できるサイズにすると便利かもしれません。
- デジタルで共有する場合は、PDFファイルや、館内ネットワーク上での共有フォルダなどが考えられます。ただし、すべてのスタッフがデジタル媒体にアクセスしやすい環境にあるか確認が必要です。
【低コスト化のポイント】 * 豪華なデザインや印刷に凝る必要はありません。内容の分かりやすさが第一です。 * 市販の書籍や有料の研修資料を購入する前に、公共機関や非営利団体が提供する無料の情報を最大限に活用します。 * 専門家への相談は、マニュアル作成の初期段階ではなく、ある程度形ができた後に「この内容で問題ないか」「さらに改善できる点はないか」といった具体的な質問をする形で行うと、短時間で済みコストを抑えられる場合があります。
作成したマニュアルの活用と浸透
マニュアルは作成して終わりではありません。スタッフに読まれ、活用されてはじめて意味を持ちます。
- 全体説明会の実施: マニュアルを配布するだけでなく、作成意図や重要なポイントについて、学芸員から直接説明する機会を設けます。質疑応答の時間を取ることも大切です。
- 日常業務での声かけとサポート: マニュアル内容に関連する出来事があった際に、「あの件はマニュアルの〇ページにあった対応が参考になりますよ」などと声かけをしたり、具体的な対応について一緒に考えたりします。
- 簡単なロールプレイング: 休憩時間などに、特定の場面を想定した簡単なロールプレイング(役割演技)を行います。「車椅子の来館者に展示室を案内する」「感覚過敏のあるお子さんがパニックを起こしそうになっている」など、具体的な状況設定で対応を練習すると、マニュアルの内容がより定着しやすくなります。これは特別な設備や準備なしで、スタッフ同士が協力して行えます。
- 定期的な見直し: マニュアルは一度作ったら終わりではなく、法改正や社会の変化、そして現場の経験に基づいて定期的に内容を見直すことが重要です。半年に一度や年に一度など、見直しのタイミングを決めておくと良いでしょう。
マニュアル以外の補完策と情報源
マニュアルだけではカバーしきれない深い理解や、変化への対応のためには、マニュアル以外の補完策も検討します。
- 館内勉強会: 学芸員自身が講師となり、特定のテーマ(例: 視覚障害のある方への声かけのポイント、発達障害の特性について等)について簡潔な勉強会を行います。外部講師を招くよりもはるかに低コストで実施できます。
- 関連情報の発信: インクルーシブに関する新しい情報やイベントの案内などを、スタッフ間の掲示板やメールなどで定期的に共有します。
- 他のミュージアムとの情報交換: 同じような課題に取り組む他のミュージアムの学芸員と情報交換することで、新たなアイデアや解決策が見つかることがあります。地域の学芸員ネットワークなどを活用するのも有効です。
- 専門機関や当事者団体: より専門的な知識や、特定の障害に関する詳細な情報が必要な場合は、関係機関(障害者支援センター、高齢者福祉施設など)や当事者団体に相談することも視野に入れます。ただし、相談する内容を具体的に整理してから連絡するようにしましょう。
まとめ:小さな一歩が大きな変化に繋がる
ミュージアムスタッフのインクルーシブな対応スキル向上は、一朝一夕に実現するものではありません。しかし、学芸員が主体となり、現場の声を活かした実践的なマニュアルを作成し、それをスタッフ全体で共有・活用していくことは、限られた予算と人員の中でも可能な、非常に有効なアプローチです。
完璧を目指すのではなく、まずは基本的な内容から取り組み、スタッフと共に学び、経験を積み重ねながらマニュアルを育てていく姿勢が大切です。小さな一歩からでも、着実に進めることで、すべての来館者にとってより安心で心地よいミュージアム空間を創造していくことができるでしょう。