安心して来館できるために:ミュージアムでの急な体調不良や困りごとへの低予算対応策
すべての来館者が安心して過ごせるために
ミュージアムは多様な人々が集まる場所です。多くの方は問題なく滞在されますが、中には予期せぬ体調不良を起こされたり、精神的な不調により落ち着きを失われたり、あるいは単に館内で道に迷われたりといった「困りごと」に直面される場合があります。特に高齢の方、小さなお子様連れの方、障害のある方、海外からの旅行者など、普段と異なる環境下では、些細なことでも不安を感じやすくなることがあります。
これらの困りごとに対して、ミュージアム側が適切に対応できる体制を整えておくことは、来館者全体の安心感を高め、インクルーシブなミュージアムづくりを進める上で非常に重要です。しかし、専門の看護師や救急隊員を常駐させることは、多くの小規模ミュージアムにとって現実的ではありません。限られた予算と人員の中で、学芸員としてどのような準備や対応ができるのでしょうか。本稿では、低予算でも実践可能な、来館者の急な体調不良や困りごとへの対応策について具体的にご紹介します。
起こりうる「困りごと」を想定する
まず、どのような「困りごと」が起こりうるかを具体的に想定してみましょう。
- 体調不良: 急なめまい、吐き気、腹痛、持病(糖尿病、てんかんなど)の発作、転倒による怪我、熱中症、気分不良など。
- 精神的な不調・パニック: 人混みや閉鎖空間での不安、展示内容への過剰な反応、急な音や光によるパニック、落ち着かない様子など。
- 迷子: お子様や高齢者の迷子、同行者とはぐれるなど。
- 情報不足・誤解: 館内構造が理解できない、展示解説が理解できない、スタッフとのコミュニケーションがうまくいかないなど。
- 設備の利用に関する困りごと: トイレや休憩スペース、エレベーターなどの場所が分からない、利用方法が分からない、オストメイト設備が見つからないなど。
- その他: 落とし物・忘れ物、付き添い者の不在、急な雨による困りごとなど。
これらの想定に基づき、必要な準備を進めます。
低予算でできる具体的な準備
大規模な設備投資や人員増強が難しい場合でも、以下の項目は比較的低予算で実現可能です。
1. 簡易マニュアルの作成と共有
- 内容: 想定される「困りごと」の種類ごとに、初期対応フロー、連絡体制、主要スタッフの役割、避難誘導手順、最寄りの医療機関やAED設置場所、緊急連絡先などを簡潔にまとめます。チェックリスト形式にすると、緊急時でも確認しやすくなります。
- 作成: 学芸員が中心となり、他のスタッフやボランティアの意見も聞きながら作成できます。専門家(地域の医療関係者、消防署員など)に監修を依頼できればさらに信頼性が高まりますが、まずは内部で可能な範囲で作成し、運用しながら改善していくことも可能です。
- 共有: スタッフ全員が常に携帯できるサイズのカードに印刷したり、共有フォルダーにデジタルデータとして格納したりして、アクセスしやすい状態にしておきます。
2. スタッフ間の情報共有体制の強化
- 研修: 作成したマニュアルの内容を共有し、具体的な事例を想定したロールプレイングを行います。特に初期対応(声かけ、状況確認、安全確保)の訓練は重要です。応急手当に関する基本的な知識や、多様なコミュニケーション方法(筆談、やさしい日本語、身振り手振りなど)についても、継続的に共有・学習する機会を設けます。外部の専門家(ユニバーサルマナー講師、医療従事者など)を招いての研修も有効ですが、まずは館内スタッフ間での知識や経験の共有から始められます。
- 連絡体制: 緊急時に誰にどのように連絡するかを明確にしておきます。内線電話、携帯電話、無線機など、館内での連絡手段を確認し、いつでも迅速に連絡が取れるようにします。
3. 必要な備品や情報の整理・整備
- 救急箱: 消毒液、絆創膏、ガーゼ、包帯、体温計、冷却シート、常備薬(スタッフ用、ただし来館者への提供は医師法に注意が必要)など、基本的な救急用品を常に補充・管理します。
- 静養スペース: 専用の部屋がなくても、一時的に静かに休める場所(予備の休憩室、事務所の片隅など)を確保しておきます。そこまで誘導するための案内表示や、毛布、水分補給できるもの(自動販売機の場所案内など)の情報を用意しておきます。
- コミュニケーション補助具: 筆談ボード、簡単なピクトグラム集、多言語対応の指差し会話シートなどを準備します。スマートフォンやタブレットの翻訳アプリも有用です。
- 車椅子の確認: 館内の車椅子(貸し出し用や予備)がいつでも使用できる状態か確認します。
- 情報リスト: 近隣の医療機関(特に救急対応可能な病院)、交番、タクシー会社の連絡先リストを分かりやすい場所に保管しておきます。
4. 館内表示と情報提供の工夫
- 休憩スペース・トイレの表示: 静養できる場所や多目的トイレ、AED設置場所などを館内マップやサインで明確に示します。
- 緊急連絡先: 万が一の場合にスタッフに連絡できる方法(例:最寄りのスタッフへ声かけ、総合受付への連絡)を、館内サインや配布物で案内しておきます。
- ウェブサイト: 来館前の情報として、館内に静養できる場所があること、困った際はスタッフに声をかけてほしいことなどを記載しておくと、来館者の安心につながります。
困りごとが発生した場合の対応フロー例
- 状況の発見・把握: 来館者からSOSがあったり、様子がおかしいことに気づいたりした場合、まずは安全を確保し、落ち着いた声かけで状況を確認します。「大丈夫ですか」「何かお困りですか」など、分かりやすい言葉で話しかけます。
- 初期対応: 必要に応じて、その場で一次的な対応を行います(例:怪我の手当、水分補給の推奨、静かな場所への誘導)。
- スタッフ間の連絡: 状況を責任者や他のスタッフに迅速に報告し、応援や指示を仰ぎます。作成したマニュアルに基づき、誰が次に行うべきかを確認します。
- 静養スペースへの誘導(必要な場合): 落ち着ける静養スペースへ安全に誘導します。付き添いの方がいる場合は、その方にも状況を説明し、協力を求めます。
- 専門機関への連絡(必要な場合): 状況が深刻な場合(例:意識がない、激しい痛みがある、発作が止まらない、自分で歩けないなど)、迷わず救急車や医療機関に連絡します。警察への連絡が必要な場合もあります(例:明らかに犯罪に巻き込まれた可能性がある、徘徊など)。
- 情報共有と記録: 対応に関わったスタッフ間で情報を共有し、どのような状況で、どのように対応したかを簡潔に記録しておきます。この記録は、後の振り返りやマニュアル改善に役立ちます。
- 事後対応: 来館者の状況に応じて、関係機関への報告や、今後の再発防止策について検討します。
実施上の考慮点
- 完璧を目指さない: 限られたリソースの中で、すぐに全てを整えることは難しいかもしれません。まずはリスクの高い状況から優先的に対応策を考え、できることから段階的に実施していくことが現実的です。
- スタッフの安全: 来館者のサポートを行う際は、スタッフ自身の安全も確保することが重要です。無理のない範囲で対応し、必要であれば専門機関に委ねる判断も必要です。
- プライバシーへの配慮: 来館者の体調や個人的な状況に関する情報は、プライバシーに配慮し、必要最小限の範囲で共有・管理します。
- 他のミュージアムの事例: 他のミュージアムがどのような対応をしているか、情報交換や見学を通じて学ぶことも有効です。特定の団体や機関が公開しているガイドラインなども参考になります。
まとめ:来館者の安心感を育むために
来館者の急な体調不良や困りごとへの備えは、インクルーシブなミュージアムづくりの地道ながら重要な一歩です。大掛かりな改修や予算をかけずとも、スタッフ間の情報共有、簡易マニュアルの作成、既存の備品やスペースの活用といった工夫で、多くの状況に対応できる体制を構築できます。
これは単なるリスク管理ではなく、「もしも」の時にも「このミュージアムなら安心だ」と思っていただけるような、信頼関係を築くための取り組みでもあります。学芸員として、展示や資料だけでなく、来館される一人ひとりの安全と安心にも心を配り、できることから実践してみてはいかがでしょうか。継続的な改善を通じて、すべての人が快適に楽しめるミュージアムを目指しましょう。