「落ち着ける場所」をミュージアムに:低予算で実現するクールダウン・リラックススペースの作り方
はじめに:「落ち着ける場所」が求められる背景
近年、ミュージアムへの来館者の多様性は増しています。それに伴い、展示鑑賞中に感覚的な刺激に圧倒されたり、人混みや騒音に疲れたり、あるいは単に静かで落ち着いた環境で一時的に休息を取りたいと感じる方がいらっしゃいます。特に、感覚過敏のある方、発達障害のある方、認知症のある方、高齢者、内部疾患のある方、小さなお子様連れの方など、多様なニーズを持つ方々にとって、安心して「ひと息つける」場所の存在は、ミュージアム体験の質を大きく左右します。
このような「落ち着ける場所」、あるいは「クールダウン・リラックススペース」を設けることは、インクルーシブなミュージアムづくりにおいて重要な一歩となります。しかし、特に地方の小規模ミュージアムでは、限られたスペース、予算、人員の中で、どのように実現すれば良いか悩む学芸員の方も多いことでしょう。
この記事では、そのような課題を持つ学芸員の方々に向けて、低予算でも実現可能な「落ち着ける場所」の設置方法と運営のヒントを具体的にご紹介します。
なぜ「落ち着ける場所」が必要なのか?
ミュージアムは、視覚、聴覚、時には触覚など、様々な感覚を刺激する情報に溢れた空間です。多くの来館者はこれを楽しみますが、一部の方にとっては、これらの刺激が過剰になる場合があります。
- 感覚過敏: 特定の音、光、匂い、人混みなどが、極度の不快感や苦痛を引き起こすことがあります。
- 発達障害: 環境の変化に順応することが難しかったり、予期せぬ刺激に対して混乱やパニックを起こしたりすることがあります。
- 認知症: 不慣れな場所での混乱や不安を感じやすく、落ち着ける静かな環境が必要となる場合があります。
- 身体的な疲れ: 高齢者や内部疾患のある方など、長時間の立ち見や移動が困難な方にとって、安心して座って休憩できる場所は必須です。
- 精神的な疲れ: 情報量の多さや混雑によって精神的に疲弊し、一時的に刺激の少ない環境で心を落ち着けたいと感じることがあります。
これらの多様なニーズに応える「落ち着ける場所」は、単なる休憩スペースとは異なり、外部からの刺激を遮断・軽減し、利用者が自身のペースを取り戻せるような環境であることが求められます。これにより、より多くの人が安心して、快適にミュージアムでの時間を過ごすことができるようになります。
低予算で実現する「落ち着ける場所」の具体的な設置方法
新しく専用の部屋を設けることが難しい場合でも、既存のスペースを活用したり、小さな工夫を重ねたりすることで、「落ち着ける場所」を整備することは十分に可能です。
1. 既存スペースの有効活用
- 利用頻度の低い部屋の活用: 普段あまり使われていない会議室、事務室の一部、書庫の一部などを一時的または恒久的なスペースとして活用することを検討します。
- 展示室や共用エリアの隅: 人通りの少ない展示室の隅、広めの通路の突き当り、ラウンジや休憩スペースの一部などを、簡易的な「落ち着ける場所」として整備します。ただし、他の来館者の邪魔にならない、比較的静かな場所を選ぶことが重要です。
2. 空間を分ける工夫(低コスト)
- パーテーションや衝立: 空間を物理的に区切る最も簡単な方法です。移動可能なタイプを選べば、柔軟な配置が可能です。厚手の布製や吸音素材が含まれたパーテーションを選ぶと、視覚だけでなく聴覚刺激の軽減にもつながります。
- カーテンやスクリーン: 天井から吊るす、あるいは簡易的なフレームに取り付けることで、手軽に空間を仕切ることができます。柔らかな素材は視覚的な圧迫感を減らします。
- 家具の配置: 本棚や背の高いソファなどを配置することで、自然な形で空間を区切ることができます。
3. 設置する家具・備品の選定
「落ち着ける場所」では、心地よく過ごせる家具や備品が重要です。高価なものを揃える必要はありません。
- 座り心地の良い椅子やソファ: リラックスできる姿勢で座れるものを選びます。数を多く置く必要はありません。中古品やアウトレット品なども検討範囲に入れることで、コストを抑えられます。
- クッションやブランケット: 肌触りの良いものを用意することで、安心感や快適性が増します。洗濯しやすい素材を選びましょう。
- 調整可能な照明: 直接的な強い光を避け、間接照明や調光可能な照明を設置します。暖色系の落ち着いた色の光が適しています。スポットライトなどは避け、柔らかい光を心がけます。卓上ライトやフロアライトでも代用可能です。
- 感覚を落ち着けるアイテム(オプション):
- ノイズキャンセリングヘッドホン:外部の音を遮断したい方のために複数用意しておくと良いでしょう。
- イヤーマフ/耳栓:同様に聴覚過敏の方に有効です。
- フィジェットトイ/スクイーズボール:手の中で触って落ち着くためのアイテム。
- 砂時計/シンプルな置物:視覚的に落ち着きをもたらすもの。
- 香りのないウェットティッシュ:手を拭いてリフレッシュするため。
4. 感覚刺激の調整
「落ち着ける場所」であるためには、環境からの過剰な刺激を最小限に抑えることが重要です。
- 音:
- 可能であれば、人通りの多い場所や騒がしい機械のある場所から離れた場所に設置します。
- 簡易的な防音対策として、厚手のカーテンやカーペットを設置します。
- 静かな音楽(ヒーリングミュージックなど)を非常に小さな音量で流す、あるいはホワイトノイズジェネレーターを設置することで、外部の不規則な騒音をマスキングする効果が期待できます。
- 光:
- 自然光が直接差し込む場所の場合は、遮光カーテンやブラインドで調整できるようにします。
- 照明は調光可能なものとし、明るすぎないように設定します。
- 点滅する光や強い色の光は避けます。
- 匂い:
- 芳香剤や消臭剤の強い匂いは避けます。無臭を基本とします。
- 定期的な換気や清掃を行い、清潔な状態を保ちます。
- 視覚情報:
- 壁はシンプルな色(パステルカラーなど)にするか、装飾を最小限にとどめます。
- 多くの情報が掲示されている場所は避けるか、掲示物を最小限に抑えます。
5. 情報提供と案内
「落ち着ける場所」の存在を知ってもらい、安心して利用してもらうための情報提供も重要です。
- サイン表示: 館内マップや案内表示に「落ち着ける場所」「クールダウン・リラックススペース」のマークや文言を入れ、分かりやすく表示します。ピクトグラムと文字を併記すると、より伝わりやすくなります。
- ウェブサイト・パンフレット: 事前情報として、このようなスペースがあること、どのような設備があるか、利用方法などをウェブサイトのアクセシビリティ情報ページやパンフレットに掲載します。
- スタッフによる案内: 来館者が困っている様子の場合や、事前に問い合わせがあった場合など、スタッフが積極的に「落ち着ける場所」の存在を案内します。
運営上の考慮点
スペースを設置するだけでなく、適切に運営するための体制づくりも大切です。
- 利用ルールの設定と周知:
- 飲食の可否(匂い対策から不可とする場合が多いでしょう)
- 利用時間(長時間滞在を防ぐ、一時的な利用を促す)
- 定員
- 静かに過ごすことのお願い
- これらのルールをスペースの入口や内部に分かりやすく掲示します。
- スタッフの役割と連携:
- 「落ち着ける場所」の場所と目的を全スタッフが把握しておく必要があります。
- 利用希望者への案内方法、緊急時の対応方法について、簡単なマニュアルを作成し、周知します。
- 利用状況の確認や清掃の担当を決めます。
- 安全確保:
- 適切な照明があり、転倒などの危険がないようにします。
- 非常時にはスタッフが駆けつけられる体制を整えます。
- 個室にする場合は、外から利用状況が確認できる窓を設けたり、施錠できないようにしたりするなど、防犯・安全上の配慮が必要です。
- 清掃とメンテナンス:
- 利用者が快適に過ごせるよう、定期的に清掃を行います。
- 備品(クッション、ブランケット、ヘッドホンなど)も清潔に保ちます。
事例に学び、一歩を踏み出す
国内外の美術館・博物館では、既にクールダウンスペースやセンサリーフレンドリーな空間づくりに取り組んでいる事例が見られます。例えば、ニューヨーク近代美術館(MoMA)や英国の一部ミュージアムなどが、感覚過敏のある方向けの配慮として導入しています。国内でも、一部の美術館や科学館で、常設展の一角に静かな休憩スペースを設けたり、イベント時にクールダウンスペースを一時的に設置したりする取り組みが始まっています。
これらの事例全てが大規模な改修を伴うわけではありません。既存の休憩室の一部に柔らかい照明と吸音材を設置したり、混雑しにくいエリアにパーテーションで区切った静かな一角を設けたりするなど、小さな工夫から始めています。
重要なのは、全てのニーズに完璧に応えることではなく、「このような場所がある」という選択肢を提供し、必要とする人が安心して利用できる環境を整えようとする姿勢です。まずは、限られたリソースの中で何ができるかを検討し、可能な範囲から一歩踏み出してみることをお勧めします。
さらに深掘りするための情報源・相談先
「落ち着ける場所」づくりや感覚に配慮した環境整備について、さらに学びたい、専門的なアドバイスを受けたいという場合は、以下の情報源や専門家への相談を検討できます。
- ユニバーサルデザイン、アクセシビリティ関連の専門家・コンサルタント: ミュージアムの状況に合わせた具体的なアドバイスが得られます。
- 感覚統合療法士など、障害特性に詳しい専門家: 特に感覚過敏や発達障害に関する専門的な知見を得られます。
- 関連NPO/支援団体: 障害当事者の声を聞く機会を得たり、共に考えるパートナーを見つけたりできる場合があります。
- 他のミュージアムの事例報告: 学会発表や業界誌、各館のウェブサイトなどで、他のミュージアムの取り組み事例を参考にできます。
- 建築やインテリアデザインの専門家: スペース設計や素材選びについて、低コストな工夫も含めて相談できる場合があります。
まとめ
ミュージアムに「落ち着ける場所」を設けることは、特定の属性の方だけでなく、「すべての人が楽しめるミュージアムづくり」に貢献する重要な取り組みです。限られた予算や人員の中でも、既存スペースの活用、パーテーションやカーテンによる簡易的な区切り、心地よい家具や備品の選定、そして照明や音などの感覚刺激への配慮といった小さな工夫を積み重ねることで、実現の可能性は十分にあります。
まずは、館内のどこに「落ち着ける場所」を設けられそうか、どのような小さな工夫ができそうか、検討を始めてみてください。そして、その存在を必要とする来館者へ適切に周知することで、ミュージアムがさらに多様な人々にとって安心で快適な空間へと進化していくことでしょう。一歩を踏み出す勇気と、小さな工夫を重ねる継続性が、インクルーシブなミュージアムの実現に繋がります。